300年を超える伝統を護り伝える、壱町目町内会の大事な活動です。
ちょっと長くなりますが天満宮御祭禮(礼)の説明をさせて頂きます。
「那珂湊天満宮」の創建は、鎌倉時代と云われています。その創建から江戸時代初期頃までの天満宮は、寺院と混淆したものでありました。時に第二代藩主徳川光圀公は、寺社改革(神仏分離)を行い、元禄八年(1695)に祭礼の式を改め、神宝を添えて遷宮の式を行わせ、正式な鎮守様となされました。すなわちこの年が、真の神社としての「那珂湊天満宮」の起源であり、現在の形式である「天満宮御祭礼(お祭り)」のはじまりとも云われています。
以来、天満宮御祭礼は、由緒ある祭礼として、幾度か改めながら、数百年を経た現在も伝承されています。
那珂湊天満宮の氏子町は、旧那珂湊の町名に由来し、現在、祭礼には18町が参加しています。
我が「壱町目」の町名の由来は、元禄十一年(1698)、徳川光圀公の命により、それまでの町名「通り町」のうちから、壱町目から七町目まで町割りされ、改められたことが町名のはじまりであり、氏子町「壱町目」の誕生であります。
現在、祭礼で各町が運行している、いわゆる風流物(ふうりゅうもの)の事を、大半の人が「山車(だし)」と呼んでいますが、それは誤りで、正しくは「屋台(やたい)」と呼ぶのが正解であります。山車と屋台は別物で、今現在、那珂湊に山車は存在しません。
「山車」とは、屋台よりも縦長で背が高く、最上部には飾り物の大きな人形が据えられたものです。明治期以前は、屋台はごく稀で、そのほとんどが山車でした。明治末期頃、那珂湊は電話の架設と電灯の設置により電線が張られました。これに妨げられ、背の高い山車の運行が困難になり、程なく屋台に改造され、大正初期頃には山車は姿を消してしまいました。
山車から屋台に変わってから今日まで、かなりの歳月が流れ去りましたが、屋台のことを「だし」と呼ぶ人が今もかなりいます。是非この変遷を周知してもらって、改善していただきたいものです。
現在、屋台(風流物)を所有している氏子町は、参加18町の内14町あります。(六町目獅子、元町弥勒を含む) もちろん我が壱町目も、この中の一町でございます。各町の屋台運行は、町内の誇りであり、祭礼に彩りを添えるもので、なくてはならない存在であります。
屋台に絶対に欠かせないのはお囃子であります。その流れる音色はとても優雅であり一度聴いたら魅了されることでしょう。お囃子には、走行中に演奏される「屋台のお囃子」の他、町渡しや門付けに用いられる歌舞「民謡、端唄」があります。これらの曲目は数多くあり、この地方では伝統のあるお囃子です。
各町の若衆は、流れるお囃子の音色に酔いしれながら、祭礼期間中、朝から晩まで練り歩きます。1日の走行距離はフルマラソンの距離に相当します。それを2日間運行するので、終盤は足の痛みにさいなまれてきます。
祭礼の独特な雰囲気と匂い、屋台を引く仲間と他町との交流、ささらの荘厳さとみろくの軽快さ、お神輿の圧倒的存在感と各町町印、足の痛みと終わった後の達成感…これら全てが祭礼の醍醐味であり、誇りではないでしょうか。
現在の壱町目の屋台は、平成23年(2011)に完成されたものです。それまでの旧屋台は昭和30年代に隣町の旧勝田市中根から安値で譲り受けたもので、その製造は大正期に造られたものだと言われていました。
平成に入り、旧屋台の老朽化は確実に進行していました。所々補修し、誤魔化しながら何度かは祭礼に参加していましたが、平成16年(2004)の運行を最後に旧屋台は引退となりました。
屋台がなければ壱町目氏子若衆(若連)の存在意義がなくなり、祭礼の伝統や楽しさも途絶えてしまいます。
以降、新しい屋台を造ることを悲願とし、当時の町内役員有志は、幾度も協議を重ねていきます。特に建築資金の捻出には、かなりの労力と時間を費やしました。その他数々の諸問題を解決しながら、ようやく施工できる運びとなりました。
まず、平成22年(2010)の年末に「屋台小屋」が完成しました。そして翌平成23年(2011)の年始めから屋台小屋にて、新屋台の着工となりました。ここまで年数はかかりましたが、着工までこぎ着け、あとは建設棟梁におまかせして完成を待つだけであります。この時点で計画通り何の不安もありませんでした…。
津波の翌日、夜明けの頃 町中がヘドロまみれに。 |
時に屋台製作の進捗は、下部の土台部分が完成し、上部の組立に入る所でした。その矢先のことです。3月11日、東日本大震災に合い、津波の来襲を受けてしまいます。屋台小屋のシャッターは打ち破られ、屋台の土台部分は完全に水没し、ヘドロまみれになってしまいました。この惨状を見て、誰もが屋台製作どころではないと思ったことです。
屋台小屋のみならず、那珂湊の海岸沿いの世帯は相当の津波被害を受けました。無論壱町目内の世帯もかなりの被害でありました。犠牲者が出なかったことだけが幸いであります。
この年、当初、壱町目の計画では7月に屋台竣工披露式を挙行して、そのまま翌8月の祭礼に出場する予定でありましたが、震災の影響を受け、年番町より休祭の申入れがあり、協議の結果、本年の祭礼は中止となりました。妥当な判断であります。
屋台製作中に津波の被害を受け、大打撃を食らった壱町目ですが、今後の対応について町内役員により協議が成されました。その協議で出された答えは、「当初の予定通り本年7月24日に屋台竣工披露式典を挙行する」とのことでした。未曾有の災害から間もない時に伝えられたこの英断に対して、町内有志は誰一人反対するものはおりませんでした。このゴーサインが復興と屋台竣工への道標となり、町内の団結力はより強固なものとなりました。
その後、屋台製作が再開し、町内有志は直ちに、竣工披露式の開催に向けて準備へと進んで行きました。逆境の中、屋台製作を再開してくれた建設棟梁と職人の皆様には感謝の言葉しかありません。
そして、震災から約4カ月後の平成23年(2011)7月24日、壱町目屋台竣工披露式典を迎えることができました。屋台製作の完遂であります。
出来上がった新造屋台の土台部分の柱には、津波の影響で付いた黒ずみが残されています。「柱の汚れは歴史の証人」、震災の記録としてあえて残してあります。
さて、現状の壱町目はと申しますと、少子高齢化と人口減少の煽りを受け、世帯軒数は減少の一途をたどっています。昭和の最盛期には100軒あった世帯も、今では40軒にも満たない小さな町内になってしまいました。
当然、祭礼の担い手不足が深刻な問題になってきます。この問題は壱町目だけではなく、那珂湊の氏子町全体に言えることですし、広義には日本全国各地のお祭りにも関わる由々しき問題になってます。
壱町目の屋台運行も近年、町内の若衆だけでは手が回らず、町外から応援を呼んで、なんとか運行できている状態であります。
急激に町内の人口が増えることはありませんので、今後も町外の方々の手助けが必要不可欠となります。もし興味があるなら是非とも協力をお願いたいです。壱町目は屋台の引き手を募集してます。。
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